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新生スターウォーズ

スターウォーズの著作権? というのでしょうか、それをディズニーが買い取ったようですね。
私も小さい時からスターウォーズを見て育った世代ですが、あれが6部作ではなく、その後のラインもあるという噂があったのだとはじめて知りました。

別にスターウォーズの熱烈ファンというわけでもないのですが、あの6部作の完成度はすごいと思っています。なんていうか、大河ドラマですよね。因果応報というのか、人の世の巡り合わせ、移り変わりがあれほど端的に、SFの世界で語られているのもすごいと思います。
キャラクターがそれぞれ際立っているし、父子の相克や人間の欲望といった深淵をえぐりとっていながら、単純にストーリーとしても面白いし。
スターウォーズはマニアのファンが多くいるようですが、なんとなくあれにハマる気持ちはわかります。
前に一度読んだことがあるんですが、スターウォーズに関連する書籍ってものすごくたくさん出ているんですよね。
私も昔、解体新書とかいうペーパーバックを買ったことがあって、そこにいろいろとファンの暴露話とか、あれはないだろうとか、矛盾とかついてエツに入っている記事とかあって、三面記事的に面白かった記憶があります。

ディズニーは一大産業ですけど、これにスターウォーズがついたら鬼に金棒ですねぇ。
ディズニーランドのアトラクションとしてもスターウォーズ関係はいろいろとできそうだし、アニメ(そういえば3Dアニメもあるけど、あれはディズニー制作なのかな)とか、グッズ販売とかいくらでもビジネスチャンスは広がりそうです。

ともあれ、ファンとしてはやっぱり、新しい映画が見たいですね。6部作の続きでなかったとしても、よくあるスピンオフっていうんですか、たとえばダースベイダー視線の映画とか、ガーガーピンクスだっけか??? あのへんのキャラクターとかが主役の映画でもいいし。
あ、でもそういうのは、本格的なファンからすると「邪道」って感じなのかなぁ。

でも今でもあのテーマ曲聞くと、わくわくしてしまうし、テレビなんかで再放送やってるとストーリーはわかっているのに結局、はまりこんで見ているぐらいだから。

スターウォーズのような未来は恐らく訪れないであろうと思うけど、人が開発した近未来のものって今はたくさんありますよね。
電気自動車だって、少し前までは考えてもみなかったものです。だって、車はガソリンで動かして排気ガスを出す事が当たり前の事になっていたじゃないですか。それが今ではフィットハイブリッドのような地球に優しい車が開発されているんですから。本当に驚かされます。

新しいスターウォーズシリーズが始まるといいなと思っています。

スキーよりスノボ

うちでは長男と末っ子が15歳年齢が違う。
東尾理子さんと石田純一さんにめでたく赤ちゃんがうまれたらしいとのニュースを見たけど、石田純一にはすでに30歳をすぎた息子がいるのだからこちらの兄弟ほどではないにせよ、年齢差はあるほうだろう(ちなみにわが家の場合は父母は一緒である、ねんのため)。

さて、そのせいで、長男と末っ子ではママ友の年齢層もかなり開きがある。長男のときは私はかなり「若いママ」であり、私はよく干支を聞かれて「いやだわぁ、あたしとひとまわり違うわ」などとベテランママに嘆かれたものである。
そして今、私がそのベテランママと同じ台詞を口にしている……。

そんな若いママたちが多い末っ子の仲間がわが家にきて宴会となった。珍しくパパたちも一緒なので賑やかなパーティとなった。話題はなんとなくクリスマスのプレゼントから冬休みの予定となって、「やっぱり冬は子供にスキーをさせたいよね」的なことで盛り上がった。

今、私は「スキーをさせたいよね」と書いたが、書いたとおりに思ったから口にしたのである。ママ友はみないっせいにうなずいたのだが、「うん、スノボーは去年からやらせてる」「あ、どこで?」みたいな話題につながっていった。

そこで私は改めたわかったのだが、その若いママ軍団の半数以上が「スキーはしたことがない」のである。彼女たち&パパたちは、みな「スノボー」しか経験がないというのだ。つまり、彼ら彼女らが高校生なり大学生なりで冬山デビューしたとき、「スキー」はすでに眼中になく、当たり前のように「スノボー」から入っていったわけである。

若いママたちでも、幼少時から親に連れられてウィンタースポーツを始めたというふたりはやはりスキーから入っているという。でも「子供の頃に親とやっただけで、もう高校とか大学ではずっとスノボ」だというのである。

……ちなみに私も夫もスキーはやるが、スノボは経験がない。話題のいきがかり上、なんとなく「みんなで子連れで行きたいよね」となったのだが、それはスノボ前提での話なのである。
そういえば、長男もさんざんスキーに連れていったから滑れるわけなのだが、実際には友達と行くようになってから(つまり高校生ぐらいから)はスノボ一辺倒のようであった。

どうやら、私の世代がスキー世代の最終ラインであるようなのだ。このごろはスキー場へ行っても「スノボ専用」のコースのほうが主流らしい。もちろんスキーじたいは永遠のものだろうし、冬のオリンピックだってスキー競技は花型だから地域によっては今でも普通にスキーから育つ子供も多いはずだ。

とはいえ、都会の娯楽としてのウィンタースポーツは今やスノボが主流なのだとはじめて実感した夜だった。

ご進呈の高級土産

知り合いから博多土産で「めんたいこ」をいただきました。
明太子はわが家でもみんなの好物です。もちろん、ほかほかの炊きたて白いご飯にめんたいこはたまらんものですし、パスタにしてもいい、イカ刺をめんたいこであえるのもオツなものだし、大根おろしを添えた明太子は素晴らしい酒の肴であります。

そんな明太子ですが、昨今はスーパーなどでかなりお手頃で手に入るようになりました。
わが家もごたぶんにもれず、不況を受けて食費も制約中ならば、めんたいこも当然普段はその「お手頃」なものを購入しています。これはよく言われているように、めんたいこといってもまわりに辛みのあるタレをまぶしてあるだけで、本当にちゃんと漬けたものとは違います。
だから辛いばっかりで味に奥行きがないなどと言われています。でもまぁ、パスタにしたり、朝食のおかずならこんなもんだろ、ぐらいで食べていたわけです。

それが、いただきものの博多めんたいこは有名老舗名店のもの、といっただけではない、どうやら「極上」品らしく、「熟成・高級」みたいな毛筆書きの札までご丁寧についています。
食べてびっくり、ねっとりとした食感とプチプチの歯ごたえ、ほのかな甘みが辛みのあとにふんわりと広がるコクのあるうまさ、私と夫は「おお、これこそが明太子だよね」と目を♥にして酒を飲み、ご飯をかっこむ子供たちは「これだけでメシが2杯はいける」と争うように食べました。

本物の味ってのは、誰にでもわかりやすく「おいしい」のですねぇ。
もっともこの博多めんたいこ、デパ地下なんかでもお目にはかかりますが、いやはや、お高い。なんといっても明太子はそれだけで主役級になれるわけでもく、箸休めあるいはご飯のお供ということでそれだけの金額をかけて、しかも夫婦ふたりの酒のつまみに3人の食べ盛りの子供のご飯のおかずにたっぷりと用意する量を購入したら、財布がからっぽになってしまいます。

「こういう明太子は頂き物と相場が決まっている」
と夫が断言しました。確かに昔から、家に何か高級な食材(かにの缶詰とか、殻つきのホタテとか板箱いり牛肉とか)があるのは、どなた様からご進呈いただいたものです。
子供たちはこの明太子をお土産に下さった夫の上司の名前だけはシッカリと胸に刻み、「あの人また、ウチにこないかねぇ」と明太子大臣としてわが家では尊ばれております。

末っ子の集中力

末っ子はどうも手もとが甘いというのか、何かというとよくこぼす。コップを倒すとか、お椀をひっくりがえしてみそ汁をこぼすなどというのは日常茶飯事だ。
食事の最中ならまだわかるのだが、普通に家の中を歩いているときでも例えば、うがいのための水をいれたコップを手にしているのにポケッとしていて床に散乱させるとか、テーブルの上にあったジュースを肘だか手だかで触って落として散乱させるとか、主導の鉛筆削りの削りかすを捨てようとしてゴミ箱まで行こうとして途中で力が抜けたのかすり落として、あのオカカみたいなクズをまき散らして私に怒鳴られたりしている。

本気で「この子は握力が先天的に弱いのではなかろうか」と思ったほどである。とはいえ見ていると、ゲームのコントローラーの握り方といったら一度も落としたことがないわけだから、要するにこれは「集中力」の問題なのかもしれない。

あるいはまた、「気が散る」ということでもある。
朝、歯磨きをさせていると歯ブラシを手にしたまま、ポカ~ンと鏡を見つめていたりするので「どうしたの」と声をかけるとハッとしたようにまたゴシゴシする。ちょっと目を離すと手もとがゆるんで歯ブラシがだらんと下がって洗面台に落ちたりもする。
歯磨きが嫌いということもあるのだろうが、歯磨きをしながらまったく別のことを考えていて、そちらに意識が向かってしまうと別のことができないらしい。
気が散る、と同時に「他のことを考えはじめると意識が飛ぶ」といった部分もあるようだ。

といって手先が鈍いというわけでもなさそうで、器用は器用だ。工作なんかでも小学校1年生のわりには細かな作業をカッターナイフやはさみを使って器用にやってみせる。鉛筆の削り方を教えてみたら、昔懐かしボンナイフ(鉛筆削り用の小さなナイフ)を上手に使ってきれいに削ってみせた。

「今やっていることをちゃんと意識しないとダメだよ。危ないよ」と夫が教え込んでいる。道路なんかでポケッと別のことを考えて信号の途中なんかで立ち止まられたら危ないったらありゃしないからだ。
「うん、わかった」
末っ子は言った。言う側から、レゴブロックでタワーを造ることに夢中になっていて、おやつに出したミカンを途中で忘れたのか肘で床につきおとしてしまった。

やれやれ、である。

試着は苦手です

私の夫は一時期アパレルに身を置いたこともあっただけに、洋服にはうるさい。
それはセンスとか色合いとか、まぁそういったものもあるが、特にうるさいのは「サイズ感」である。

自分の洋服を買うときもかならず試着はするし、たとえば一般的にMサイズだとしても見ためまんまに「Mサイズ」の服を買うといったことはしない。
そのブランドごとにサイズは微妙に違うものだと言い、試着のみならず、ズボンの裾直しなどでも1ミリ単位で注文をつける。
側で見ている私は「面倒っちぃことするなぁ~」である(笑)

いっぽうで私は試着が大嫌いだ。
まぁ、あれだ。スーツだとか高額なワンピースだとか、そういったものの場合はむろん試着するし、パンツ類も裾の問題があるから基本的には試着する。
でもよく購入するブランドで同じような種類のものだったら試着をしなかったり、とりあえず鏡の前であわせただけでゴーである。
そうすると横で夫が溜め息をつく。
「そういう乱暴な買い物をしないほうがいいよ」というわけである。

なぜ試着が嫌いなのかといえば、簡単に言えば、やっぱり面倒だということに尽きる。
買い物は私は物欲のかたまりなので大好きだが、選ぶ楽しみは時間をいくらかけてもエンジョイできるがいったんコレだと決めたならもうそれでいいのである。
あれこれ、悩むことはわりあいと少ないし、そもそも迷ったりしたら買わない方向ですぱっとあきらめる。
選んだ後になにがしかの時間をかけるということがもう面倒っちぃのである。

本当にオシャレな人とか、洋服好きというわけではない、とういことなのかなと最近は思うようになってきた。
そういえば、洋服をタンスの中にしまうとか、そういう整理も私はかなりずぼらなほうだ。大切に扱うといった意識が希薄で、よく夫に「チャックのついたものとセーターとかシャツとか一緒に洗うなよ! 破けたり、切れたりする!」と怒られている。
まして、色物と白いものをわけて洗うなんてことは、面倒なんでやってない。今時、色落ちするものは少ないし、ま、色落ちしたら「残念」ですましている。

夫婦生活も長くなると、こうした互いの「価値観や意識の違い」に文句をつける気力も失い、「またあいつときたら」ぐらいですむ。もはやユニクロあたりで買い物しているわたしに、夫も「試着したら」とは言わなくなった。歳月のたまものであろう。

命の重み

長男(大学生)の小学校、中学時代の同級生がバイクの事故で亡くなったという知らせを受けました。

特別親しかったというわけでもありませんが、大勢で集まるときはけっこう顔をあわせていたようですし、一時期は同じ少年野球チームに所属していたこともあって私も親御さんも息子さんも顔見知りです。

長男もショックを受けている様子ですが、人生にはときおり、このような突然の別れがあることをじょじょに受け止めてもいるようです。

それにしても、親御さんの気持ちを思うとやりきれません。
バイクは事故が多く、また事故の状態によっては非常に命にかかわることが多いのも事実でしょう。
だからといって、バイクを禁止していたら事故にあわなかったかというとそれはまた別の問題です。クルマでも交通事故はありますし、たとえバイクにしろクルマにしろ免許を持っていなかったとしても、事故にあわない保証などどこにもありません。
あるいは列車の、歩いている最中に、自然災害も含めて、生きている限りは命の保証などどこにもないのです。

親として、たとえば子供のバイクやクルマを禁止したとしても、もし子供がそこで生涯を楽しむ自分の趣味を取り上げられたことで、鬱々として人生を楽しむことができなかったら、例えば親の理不尽さから親子関係に何らかの齟齬が生じてうまくいかなくなったら、それもまた、命の重みはなくとも、人生の重みとして正しいのかどうかもわかりません。

おぎゃあと産まれた瞬間から、親ならば「健康に育ってほしい」とひたすら願い、大きくなればなったで、「心身ともに健やかであってほしい」と願い、常に子供は親にとって喜びの対象であると同時に不安の種でもあり、時には自分の力でどうしようもないだけに子供の不幸を自分の不幸以上に悔しく、悲しく思うものなのでしょう。

それが運命だったと言えばそうなのでしょうが、割り切れない思いや悔いを抱えて、親は常に子供の側にありつづけるしか方法はないのかもしれませんね。命ははかりしれないほど重いものなのに、時に神様は過酷な運命を投げてきます。いかに簡単に命が儚くなるかと思うと、それだけに生きている人は命を意識していかなければならないと思いました。

ご冥福をお祈りしつつ、いろいろと思い、考えた一日となりました。